「物忘れ外来は役に立つか」の準備(仮題)―その1

という訳で書き散らしていこう。
思いついたまま書いていく、ブレーンストーミングのつもり。


最近、認知症と言うと小澤勲の名前がよく出てくる。
認知症の第一人者」なんて呼ばれているのを見たことがある。
僕的には「??」である。
だって優れた認知症のサポートやケアをしている人はいっぱいいるのだし、
彼はこの分野では比較的新参者なのだから。


新書で広い読者層を獲得したのが大きいのだろう、と思う。
実際、彼が岩崎学術出版社から出した『痴呆老人から見た世界』(1998年)は
とてもよい本だが、精神医療関係者の一部以外には注目されなかった。


この本が出た頃、友人と認知症について書いている精神科医では
やはり竹中星郎が一番だろう、と意見が一致したことがある。
老年期精神医学ではそれ以前に、
竹中星郎、室伏君士といった人たちの著作があって、僕たちはそれで勉強した。
『痴呆老人から見た世界』の僕の第一印象は、
ドイツ精神医学・精神病理学の枠組みで記述・考察していて学術的だな、
というものだった。
もちろん、臨床の中から課題を見つけ出し考察する、
という生きた精神病理学であり、その点で大いに感心した。


しかし一方で、小澤もふつうの精神科医っぽくなったな、
という軽い落胆も覚えた。


彼が認知症の臨床に転じる前の洛南病院での臨床についてはよく知らない。
ECTについてなど、おそらく批判すべき点も多いに違いない。
しかし、僕のそれまでの小澤のイメージは、
『呪縛と陥穽』『『幼児自閉症論の再検討』のラディカルな精神科医
というより「反」精神科医だった。
確かに小澤に一貫性・連続性を見ることは十分に可能だ。
(たとえば天田城介
しかし、僕のこの軽い落胆にも根拠があると思う。
たとえば『呪縛と陥穽』で投げかけた精神医療批判を彼は超えて行ったのではない、など。


さて、僕は『痴呆老人から見た世界』の後に、"Understanding Dementia"など、
主に海外の著作を読んで行った。
その中で、認知症については精神医学・精神病理学モデルから社会モデルへと
進むべきではないか、と思うようになった。
おそらくそうすることで、竹中・室伏・小澤が見えなかったものが見える(巨人の肩に乗って?)のではないか、
そして認知症の人との別のつきあい方が見つかるのではないか、と。


これからの僕の認知症臨床のテーマは、終末期ケアとこれだと考えている。