『博士の愛した数式』

遅ればせながら映画を見た。
ルート(吉岡秀隆)が虚数単位「i」のしたとき、
博士の愛した数式」の見当はついてしまった。
ただ、それをなぜ博士が愛するのかは十分には納得できなかった。


映画中、腑に落ちなかったこと。
ルートが、自然数は人類が生まれる前から存在する、と言いながら、
一方で、虚数は人間が発明して人間の心の中にある、と言うこと。


確かに数の存在性格というのは、哲学の歴史の一つの駆動力になってきたぐらいの代物で、
人類が、いや宇宙が生まれる前から存在する、と言っても、心の中に存在する、
と言っても、どちらもまちがいとは言えない。


そこではなく、僕が腑に落ちないのは、自然数虚数をそこで区別することだ。
自然数が宇宙が生まれる前から存在するなら、虚数もそうであり、
虚数が心の中の存在なら自然数もそうである。
オイラーが例の「数式」で明らかにしたのはそういうことではなかったか。


僕がいわゆる「オイラーの公式」を博士が愛した理由が十分には納得できなかったのは、
たぶんそのことに関係している。


「真実は目に見えない」ということを虚数に託して言いたいのだろう、というのは分かる。
だが、オイラーの公式は目に見えないもの(虚数)と目に見えるもの(実数、自然数
との関係を示したものではない。それは見かけに過ぎない。
そうではなく、目に見えないもの(数)同士の関係を示したものではないか。
それが「美しい」のは、人類がまったく別々のきっかけで「発見」した数が簡素な等式で結びつけられていること、
数が人類からは独立した存在として自己主張しているように見えることではないか。


なお、蛇足だが、「真実は目に見えない」とかまして「心の中にある」のような俗っぽいせりふが気になった。
確かに、「真実は目に見えない」だろう。そしてそれは哲学の出発点には違いない。
ヘーゲルの『精神現象学』だってそこから始まっている)
ただし、それをことさらに言ったり、ましてだから「心の中にある」と言うのは俗っぽい。
博士にそう言われると何となく癒される気がするが、その癒しは何だかうさんくさく感じる。
…こんなことを言うと、好感を持たれないだろうな(苦笑)。
このあたり原作ではどうなっているのか、機会があったら読んでみたい。